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 第8章で放射線の恐ろしさについて触れたばかりではありますが、本章では逆に、放射線の利用について触れておきましょう。放射線は厄介なものではありますが、人類はさすがというべきか、その厄介なものですら積極的に利用しています。今や放射線の利用は、われわれの生活にはなくてはならないものとなっています。
 放射線の利用については、その効果とリスクとを天秤にかけ、利用するかどうかを判断するのですが、それは、他のあらゆるものに対してまったく同じことが言えます。自動車が年間数千人の日本人を殺そうとも、だからといって自動車そのものをなくすなど考えられないように。

 第7章に画像で挙げた測定器のうち、OSLバッジを除くすべてが、アロカ社というメーカーが製造したものです。放射線計測器のトップメーカーで、日本でもっとも信頼性のある機器を世に送り出しています。ところがこのアロカ社は、2011年に日立グループに買収されて子会社となり、2016年からは日立製作所の一部署となっています。子会社時代の社名が日立アロカメディカルでした。
 そう、メディカル。
 この名前が表わしているように、一般社会において、放射線を利用する分野は、現在は医療が最大であって、われわれのように本来放射線を研究していた物理学の分野は、いまやごく一部にすぎないのです。そこで、まずは、医療分野での利用について見ていきましょう。
 放射線を医療分野で利用する場合は、大きく検査と治療に分かれます。身体の不具合を調べる検査にも、その不具合を治す治療にも、放射線は大活躍しています。

X線撮影

 まずは、検査での利用について見ていきましょう。
 第6章でもお話ししましたように、およそ日本人として生まれ育った人で、X線撮影をしたことがない人など、探し出すのがむずかしいくらいではないでしょうか。なぜか日本人は正式名称よりも俗称を好む傾向がありますので、X線撮影のことを「レントゲン撮影」などと言う人が多いですが。
 レントゲンがX線を発見したのは1895年ですが、翌1896年には、早くも、X線撮影による骨折の診断が行われています。
 X線撮影に使われるX線発生装置であるX線管の原理は、以下のとおりです。装置は、フィラメントと標的から成ります。フィラメントに電流を流し熱すると、フィラメントの中の電子が、そのエネルギーを受け取って、原子の外に飛び出します。それをフィラメントと標的の間に加えた電圧によって加速し、大きなエネルギーで標的に衝突させます。

 標的の原子に衝突した電子には、ふたつの反応が起きます。第2章を思い出してください。ひとつは、電子が急激に減速または進路変更されることにより加速度がかかり、X線が発生します。もうひとつは、電子が標的の原子の軌道上の電子を叩き出し、その結果空席になった軌道に、もっと上の軌道の電子が落ちてきて、そのときに軌道のエネルギーの差額分のX線を出します。どちらもX線が発生しますが、一般的なX線管から発生するX線は、前者が9割、後者が1割といったところです。

 いっぽう、X線撮影の原理は、X線を照射されたフィルムが黒く変わることを利用したものです。X線発生装置とフィルムの間に、撮影したいもの(人体など)を置くと、X線と反応しやすいものはそこでX線が遮蔽され、フィルムのほうまで届くX線の量が少なくなりますので、そこだけ色が薄くなる(白っぽくなる)のです。

 X線(とγ線)と物質との反応は第4章でお話ししたとおり、比重が大きいほど反応が大きい(1)ですから、フィルム上では、骨格は白っぽく、筋肉や内臓は黒っぽく写ります。内臓の中でも、他と区別して写したい場合は、そこに造影剤を入れて撮影します。腸を撮影するときによく使われる造影剤が硫酸バリウムで、比重が大きいが不溶性で腸から吸収されにくいために使用されています。検診のときに「バリウムを飲む」などと言ったりする人もいますが、単体のバリウム(金属)を飲むわけではなく、硫酸バリウムを飲んでいるわけです。
 現代ではカメラはフィルムを使わずに半導体素子を使ってディジタル処理をしていますが、X線撮影でも、フィルムではなく、イメージングプレートや半導体素子を使ってディジタル処理をしています。

 このX線撮影の応用が、コンピューター断層撮影(Computed Tomography、CT)です。CTの原理は、撮影対象をあらゆる方向からX線撮影し、それをコンピューター上で合成し、立体的な断層図を描くものです。

治療での利用

 検査での利用に続いて、治療での利用についてお話ししましょう。
 放射線は細胞のDNAを破壊するというのはこれまでお話ししたとおりですが、それであれば、癌細胞など、望ましくない細胞も破壊できるはずです。しかも、感受性の面から言うと、細胞分裂が盛んな組織ほど高い第5章のですから、通常の細胞よりもはるかに細胞分裂の盛んな癌細胞は、放射線に対する感受性がより高いことになります。
 放射線発見の初期段階では、そういった生体に対する放射線の影響が詳しくわからないうちから、試行錯誤で放射線が治療に使われていました。例えば、X線を皮膚癌患者の患部に照射して治療する最初の成功例が発表されたのは1899年、X線の発見からわずか4年後のことです。
 X線に続いて、他の放射線による治療も次々に行われました。とくに僕が思い切った方法だと思ったのは、1920年代に行われていた、ラジウムを用いた子宮癌の治療です。これは、白金製の管の中にラジウムを詰めたものを、直接膣の中に挿入し、数日間放置するものです。白金製の管にした理由は、α線やβ線を管の壁で遮蔽し、γ線だけを人体に照射するためです。

 これらの方法は、X線にせよ、ラジウムにせよ、放射線を外部から照射するもの(膣内に入れても、体内組織に取り込まれるわけではありません)ですが、放射性物質を直接投与し、故意に内部被曝させる方法もあります。その例として、ヨウ素131の投与について触れておきましょう。
 ヨウ素131と言えば、体内に入ると甲状腺に溜まるので厄介な放射性同位体の代名詞のようなものですが、まさにその甲状腺に故意に溜め、放射線を浴びせて組織を破壊するものです。この方法は、バセドウ病の治療に使われるものです。バセドウ病は甲状腺ホルモンが過剰に分泌されることで起こる症状なので、甲状腺の細胞を破壊して減らすことでホルモンの分泌量も減らす、といった方法です。手術よりも手軽で薬物治療よりも早く治るらしいのですが、それでも、このような方法は、放射線の危険性について学び、可能な限り被曝量を減らそうと考えてきた者には、ちょっと抵抗があるのではないでしょうか。この治療は、ブッシュ大統領(パパブッシュのほう)が在任中にバセドウ病を発症したときに受けたことで有名です。

粒子線治療

 放射線治療の問題点は、目的の癌細胞などを殲滅できるいっぽうで、その周辺の正常な細胞にまでダメージを与えてしまうことです。ただしこれは、手術や、薬物治療にも同じく言えることで、治療に副作用はつきものとも言えます。しかし、なんとかして副作用を減らす努力を、医学会は絶えず続けてきていて、どの治療法も、考えだされた当初に比べ、副作用を相当減らすことが可能となっています。放射線治療においても、それはいえます。
 放射性物質から生ずるγ線や、X線発生管から生ずるX線を使っての治療は、広い範囲に亘って放射線を照射するために、同時に破壊されてしまう正常な細胞の量が多くなるのですが、それを大幅に改善すべく登場したのが、加速器を用いた治療です。第2章の最後にお話ししたとおり、粒子を加速したものも放射線ですから、これを利用して癌細胞を破壊することができます。
 加速器を用いた粒子線の利点は、そのエネルギー、量、向き、広がり方などを人間が制御できることです。つまり、患部にだけ照射できるような、細く絞った粒子線をつくることができます。
 また、奥行き方向についても制御することができます。患部が身体の奥深くにある場合、粒子線をどれだけ絞ろうとも、その患部に至る道の途中にある細胞は粒子線を浴びてしまいます。これを避けるには、外科手術で患部を露出させる手もありますが、それならその外科手術で患部を取り除くのと大差ありません。外科手術に頼らず、皮膚の外側からそのまま粒子線を照射して治療することが望ましいのです。
 ところが、人工的な粒子線を用いる場合、それすらも制御できるのです。第4章でα線やβ線のような荷電粒子と物質との反応についてお話ししたときに、ブラッグ曲線なるものをお見せしたのを思い出してください。

ブラッグ曲線

 このブラッグ曲線は、荷電粒子の進路に沿って、その途中で物質に与えていくエネルギーの値を表わしたものです。荷電粒子は速度が遅いほど大きなエネルギーを与えますから、停まる瞬間に与えるエネルギーが最大となる、という話でした。たとえばこの飛程ちょうどのところに患部が来るように調整できれば、途中の正常な細胞に与えるエネルギーは抑えて、患部に大きなエネルギーを与えることができます。飛程は、飛ばす粒子の種類ごとに、最初に持っていたエネルギーによって決まりますから、加速器のようにエネルギーを変えられる装置であれば、狙う患部の深さを調整できるのです。「飛程」という概念があった荷電粒子と、それがないγ線やX線との違いが、ここにあります。
 また、これを利用するには、ピークは鋭ければ鋭いほど、患部だけを集中的に攻撃できます。そして、これも第4章でお話ししたとおり、粒子の質量が大きいほど、ピークは鋭くなりますから、電子よりも陽子、陽子よりももっと重いイオンのほうが、より患部のみを集中して攻撃できます。

 この方法を極めたのが、放射線医学総合研究所(放医研)HIMAC(Heavy Ion Medical Accelerator in Chiba、千葉重イオン医療用加速器)です。ここでは、ヘリウム、炭素、窒素、酸素、ネオン、シリコン、アルゴンなどを加速し、患部に照射します。重イオンを用いた粒子線治療は、世界初だそうです。HIMAC自体は研究用なので非常に大型で高価なのですが、その規模を縮小した普及型とも呼ばれるものが全国に建設されはじめているとのことです。
 最新の粒子線照射の技術で、僕的に凄いなと思ったのは、呼吸に合わせて照射位置を微調する技術です。粒子線治療は患部にだけ照射することを売りにしていますが、手術台の上で静かに横たわっている患者さんでも、呼吸に合わせて、身体は微妙に動いています。つまり微妙ではありますが患部も呼吸とともに動いているのです。それに合わせて粒子線の照射位置も変えているのだそうです。「患部にだけ照射する」ということを究めた技術です。
 粒子線治療は、副作用が大きい化学療法や、切除を行うために身体の負担が大きい外科手術と違い、副作用や身体への負担を小さくして治療することが可能です。

BNCT

 現在(本原稿執筆時)筑波大学病院の院長を務められる方で、松村先生という方がおられます。僕が松村先生にお逢いしたのは先生が同病院の外科部長だった頃で、その頃から日本屈指の脳外科医と呼ばれていた、とても優秀な方です。その松村先生をもってしても、脳腫瘍の手術はむずかしい、とのお話をうかがいました。脳の中に点在している癌細胞を、正常な脳細胞の機能を維持したまま取り除くことは、弩素人の僕ですら、とてもむずかしいであろうことが想像に難くありません。
 その松村先生がリーダーとなって進められているのが、加速器を用いたホウ素中性子捕捉療法(Boron Neutron Capture Therapy、BNCT)です。
 第4章でホウ素10が中性子を吸収しやすいということをお話ししましたが、具体的にどのような反応が起こっているのかを見てみましょう。

のように、ホウ素10が中性子を吸収し、リチウム7とヘリウム4になります。ヘリウム4はα線そのものです。これも第4章でお話ししたとおりα線は飛程が短く、それより重いリチウム7はより飛程が短いです。この反応で生じるリチウム7とヘリウム4のエネルギーを計算すると、それぞれ、0.84MeVと1.47MeVで(2)、そこから、人体中の飛程はそれぞれ4μmと9μm程度です。どちらも、人間の体細胞ひとつの中に収まる距離です。
 ここに、ホウ素10を含む細胞があったとします。それに中性子を照射すると、中性子は透過力が強いので大部分は通り抜けますが、ホウ素10は細胞の主成分の水素や炭素よりもけた違いに反応断面積が大きいので、中性子を吸収し、先ほどの反応が起きて、リチウム7とヘリウム4(α線)を出します。これらの放射線は飛程が短いのでその細胞から出ることはありませんが、その分そこだけに膨大なエネルギーを落としますので、確実にその細胞を破壊します。
 つまり、もし、ある細胞にだけ選択的にホウ素10を吸収させることが可能であるならば、その細胞だけを確実に破壊し、他の細胞を傷つけない、という、細胞単位での選択的攻撃が可能なのです。これは、先ほど紹介した粒子線治療以上に細かい制御が可能であることを意味します。

 そして、21世紀の今、癌細胞にだけ選択的に吸収させることができる化合物を、人類は開発したそうです(3)

 あとは、中性子を照射する装置が必要です。中性子が大量に発生するものと言えば、真っ先に思いつくのが原子炉です。発電用の原子炉では中性子を漏らさないように設計している上、もちろん運転中に炉心に近づくことはできません。そこで、この治療専用の原子炉が必要となります。
 ひとつは、京都大学の原子炉です。僕も学生のときに見学に行ったことがありますが、治療室がもろに原子炉にくっついていて、ちょっと驚きました。もうひとつは、原研内のJRR-4(Japan Research Reactor No.4)で、毎日出退勤時に横を通ります。しかし、JRR-4のほうは、東北大震災以来稼働を停めており、そのうち廃炉されるそうです。
 原子炉は確かに大量の中性子を発生させるのですが、建設費用がとても高く、立地に関する制限も大きく、そう簡単に建設できるものではありません。実際、現在このBNCTで使用されている原子炉は、日本でただひとつ、京都大学原子炉だけです。
 BNCTは、照射前日に来所してホウ素剤を飲み、翌日照射して、その日のうちに帰ることができ、患者への負担がとても少ないのが特徴です。副作用もほとんどない上に効果がとても大きい、非常に優れた治療方法です。
 ところが、治療できる場所がこのようにほとんどない上に、原子炉の運転には様々な制約があるために治療のために使える時間が少なく、結果、治療を受けられる患者数も少ないのが現状です。
 そこで、原子炉とは違った中性子発生装置をつくり、それを使って治療を行う計画が進められています。それが、加速器を用いた中性子源です。僕が勤務するJ-PARCには、陽子ビームを標的(水銀)に照射して中性子を発生させる施設(物質生命実験施設)もありますが、その装置を小型化したような装置を開発し、病院にも設置できるようなコンパクトな中性子源を目指しているのが、松村先生が率いるグループなのです。中性子発生装置は、我々高エネルギー加速器研究機構が担当しています。
 標的にはベリリウム9を用い、

という、ちょうどベリリウムとホウ素の中の中性子と陽子が入れ替わったような反応で、中性子を取り出しています。
 これが量産できるようになれば、価格的にも大きさ的にも、全国の大きな病院には設置できるものとなります。そうすれば、原子炉という運転に大きな制約があるもの、しかもBNCT用としては日本にひとつしかないものに頼らなくとも、全国のそれぞれの病院で、その病院の都合に合わせて、治療が行えることになります。BNCTが普及すれば、癌治療が飛躍的に進歩することは間違いないでしょう。そして、この方法は、日本が圧倒的に世界をリードしているものでもあります。もしかしたら、将来、世界中の癌患者が日本に治療にやって来るかも知れません。

トレイサー

 第7章冒頭で、放射線はきわめて微量でも検出できるために、我々のふつうの感覚とはずいぶん違っている、という話をしました。その特徴を遺憾なく発揮した利用方法についてお話ししましょう。
 たとえば人体の仕組みなどの解説を読むと、まるで見て来たかのようなことが書かれていたりしますが、それはどうやって調べたのでしょうか。その調べ方のひとつが、トレイサー法と呼ばれるものです。トレイサーと呼ばれるある特定の物質を入れ、それを別の場所で検出することで、その物質がどのような経路で移動するか、を調べます。人体以外でも、たとえば自然界の水の流れの調査などでも使われます。
 トレイサーは、大量にぶちこんでもよいのですが、とくに人体で調査する場合には、健康に影響を与えないよう、量が少なければ少ないほどよいです。そこで、化学反応よりもけた違いに検出しやすい、放射性同位体が使われるのです。
 また、化学物質を用いる場合は、人間に摂取させて、移動した後にまた人体から血液などを採取して、という手間がかかりますが、γ線を出す放射性同位体の場合は、人体の外から測ることができますから、その面でも放射性同位体を使う利点があります。
 ここでは、トレイサーの一例として、PET(positron emission tomography)について紹介しましょう。

 PETとは、positron(陽電子)とついているように、陽電子を放出するβ+崩壊を起こす放射性同位体をトレイサーとして用いる方法です。陽電子は電子の反粒子ですので、電子とぶつかれば消滅してエネルギー(γ線)に変わります(4)電子はあらゆる物質に含まれていますので、人体中では、陽電子が放出された瞬間にγ線に変わる、と考えてもよいです。そして、運動量保存則から、γ線は同じエネルギーのもの2本が、正反対の方向に放出されます。ですから、トレイサーを服用した人の周囲をγ線の検出器で囲んでおくと、1回の崩壊で、ある2箇所の検出器が反応することになり、トレイサーはその直線状に存在することになります。そして、どの方向にも同じ確率で放出されるので、複数回の崩壊を検出すると、それらの直線の交点上にトレイサーが存在することになります。

 たとえば、ある状態のときの脳の活動場所を調べたいとします。そのときに糖分が多く消費される場所を調べたい場合にはフッ素18をブドウ糖に類似した物質に結合させたものを、酸素が多く消費される場所を調べたい場合には酸素15を含む水や酸素を、それぞれ投与します。そしてこの方法で特定されたγ線の発生場所が、それぞれの物質が多く消費される場所だ、とわかるのです。

γ線滅菌

 秋葉UDXのトイレに「注射針を捨てないで」という注意書きが貼ってあります。都民の方々は慣れているでしょうから何とも思わないのでしょうが、我々田舎の人間からすると「みんなそんなにここで薬を打っているのか…ごくり」とちょっとどきどきしたりします。注射針がごみの中に混じり、それに気づかぬまま掃除の人がごみを回収したときに、誤って注射針を指などに刺してしまうと、重大な病気に感染してしまうかも知れません。人間の皮膚は、多少細菌が附着しても問題ないほどに頑丈ですが、これが、皮膚の下、体内になると話は別です。そして、注射針は、体内に直接刺すものですから、感染にはとても気を遣います。
 僕は身体が無駄に頑丈なのが唯一の取り柄のような人間ですので、病気で病院に行ったことがありません(怪我では行きますが)。そういう人間でも、年に2回は、注射針を刺すことがあります。健康診断です。僕は放射線業務従事者ですので、通常の健康診断以外にも放射線業務従事者専用の健康診断も受けますので、年2回なのです。UDXのトイレで薬を打ったりしないみなさんでも、年1回は検査のために注射針を刺しているのではないでしょうか。
 検査に用いる注射器は、感染などを起こさぬように使い捨てで、看護婦さんは使用直前に袋を破って取り出しますが、みなさんは、この注射針はちゃんと滅菌されているのだろうな…と疑ったことはありませんか。もちろん、ちゃんと滅菌されている は ず です。
 滅菌処理というと、みなさんの家庭でも乳児用の哺乳瓶などを煮沸したりするので、あのようなものを想像されるかも知れません。あれだと、煮沸後に乾燥させたりする必要がありますので、その間にまた細菌が附着して…などといらぬ心配をしたりする人もいるかも知れません。注射針を袋に詰めるには、よく乾燥させないといけませんからね。薬品を用いた滅菌でも、処理後には、その薬品をよくよく洗浄して落とさないといけませんので、その洗浄の工程も気になります。
 でも、そのような心配は必要ありません。なぜなら、注射器は、袋に詰めたまま滅菌処理をしているからです。
 どうやって?
 袋に入ったまま、濡らす必要もなく、確実に滅菌できる方法があります。このサイトをここまで読んでくださったみなさまには、もうなにかおわかりでしょう。
 γ線を照射するのです。
 γ線照射による滅菌であれば、注射器の製造工程になんら手を加えることもなしに、梱包が終わった後で、袋の外から照射し、そのまま何の処理もせずに出荷できます。袋は開けないですから、照射後に細菌が入る恐れもありません。乾燥の必要も、附着した薬品などを取り除く必要も、いっさいありません。下手に加熱してプラスティック部品を傷めてしまうこともありません(5)放射性物質から出てくるγ線は、中性子と違って、注射器の材質を放射化させることもありません。とても素性のよい滅菌方法だと言えます。

食品への照射

 みなさん、じゃがいもはお好きですか。蒸したじゃがいもを塩とバターだけで喰べると、まさに「欧州戦線」て感じで、とてもよいですよね! 間違ってもアメリカ人のようにケチャップをつけるような無粋なことはしたくないものです。
 そのじゃがいもは、日本国内では、日本の欧州とも言うべき北海道で、その8割が生産されているそうです。ところが、北海道は東京から遠く、みなさんの家庭の食卓に上るまでの間に、その品質管理が大変です。とくに、芽にはソラニンなどの毒性物質が多く含まれるため、芽が出ないように管理しなければなりません。みなさんも、芽が出たじゃがいもは買いませんよね。
 そのため、じゃがいもの一部には、芽が出ないように、ある処理がされています。それがγ線照射です。γ線を照射することで、芽の部分の組織を破壊し、細胞分裂を阻害するのです(6)
 食品の品質管理や、殺菌、殺虫を目的として、世界中でγ線照射が行われています。薬品による殺菌や殺虫に比べて、食品に対する安全性が格段に高いからです。世界では、香辛料への照射が多く行われ、アメリカでは、肉や、豚肉、鶏肉、青果物に対しても照射が行われています。肉に対する照射は、おもにO-157対策だそうです。
 いっぽう、日本では、放射線に対するアレルギーが強い人が多いために、じゃがいもにしか照射はされていません。
 この工程で使用されるγ線のエネルギー領域では、食品が放射化したり変質したりすることがないのは明らかですが、食品であるために慎重に慎重を重ね、照射後の食品の検査もじゅうぶんに行われています。

年代測定

 みなさんは歴史には興味がありますでしょうか。僕はとても興味があります。現在この社会はなぜこのような状態になっているのか、その答えがそこにあるからです。
 歴史の研究では、文書の研究のほかに、当時使われていた物品の研究もとても大切で、そこで重要な役割を果たすのが年代測定です。歴史的遺物を説明するときに、よく「これは○○年前のものです」なんてさらりと言ってのけたりしますが、どうやってそれがわかったのでしょうか。その年代測定のひとつが、放射線を利用した方法なのです。
 地球上の生物は、炭素化合物からできています。ですからその身体の中にはかならず炭素が含まれています。その炭素の同位体に、炭素14というものがあります。これは、β線を出す放射性同位体で、半減期は5730年です。この炭素14は、宇宙線と大気中の窒素との反応によって常時つくられ、二酸化炭素の形で大気中にある一定濃度で存在しています。植物は光合成を行うときに大気から二酸化炭素を取り込みますから、植物の身体の中にも一定濃度の炭素14が含まれています。動物の身体の中にも、食物連鎖によって一定濃度の炭素14が取り込まれます。光合成にせよ、食物連鎖にせよ、生きている限りは続きますので、生物は、生涯、炭素14を取り込み続けることになります。そしてもちろん排出もしますから、そのバランスによって、生物ごとに、ある一定の割合で体内に炭素14が含まれていることになります。炭素全体に対する炭素14の割合は、自然界を調べればわかりますから、あとはその生物の身体に含まれる全炭素量がわかれば、その生物に含まれる炭素14の量(あるいは、割合)もわかります。
 ところが、その生物が死ぬと、それ以上炭素14を取り込むことはなくなりますから、あとはβ崩壊によって減っていくいっぽうです。そこで、生物の死骸(たとえば木造建築の木材)からサンプルを採り出し、その中の全炭素量と、炭素14から放出されるβ線の放射能とを測定すれば、生きていたときから比べて、つまり自然界での全炭素に対する炭素14の割合から比べて、どれくらい減っているかで、何年前にその生物が死んだのか(木造建築であれば木材が切り出されたのはいつか)がわかるのです。

タイヤ

 医学にも歴史にもじゃがいもにも興味がない人でも、車には乗るでしょう。自分で運転しない人でも、タクシーには乗るでしょうし、そもそもみなさんが普段の生活で使っている物品のほとんどは、トラックによって運ばれたものです。意識せずともわれわれが日々深くお世話になっている車を、文字どおり足許から支えているのが、タイヤです。
 僕は1か月に1~2回は神戸に行くのですが、新神戸駅でホームから改札へと降りるときに、毎回、住友ゴムのこんな広告を目にします。

住友ゴムのタイヤ広告

 この広告には、最初の国産タイヤ(右)と、現代のタイヤ(中央)の画像が載っているのですが、両者を比べてお気づきの点はありますでしょうか。古いタイヤはドーナッツ形をしていて、接地面が丸くなっていますが、現代のタイヤは接地面が平らになっていますね。タイヤの仕事はしっかりと地面に喰いつくことですから、当然ながら接地面が広い平らな形状のほうが性能はよいのですが、タイヤは風船のように空気を入れて膨らませますから、本来は丸くなるのが自然で、平らにするにはそれなりの技術が必要です。このような形状を保ちつつ強度を確保するために、現代のダイヤは、カーカス、ベルト、トレッドという3層構造になっています。トレッドが地面に喰いつく層、つまりわれわれが目にしている部分で、カーカスとベルトが強度を保つ補強層です。このカーカスを構成する材料には、架橋と呼ばれる処理が施されています。分子の構造の途中に、まさに橋を架けるが如く、別の分子を結合してやることで、材料の強度を上げてやるわけです。

 その架橋を行うときに、分子の化学反応を起こしやすくするために、放射線(β線)を照射して、放射線が当たった部分を活性化してやります。第5章で、活性化した分子、ラディカルが、DNAを攻撃する話をしましたが、まさにこの攻撃によって、分子の反応を起こりやすくするわけです。
 現代では、ほとんどのタイヤが、この放射線照射の工程を経てつくられています。厄介だという印象がある放射線も、意外なところで、われわれの生活になくてはならないものとなっている、その一例です。

第9章まとめ

  • 放射線は我々の生活の様々な場面で広く利用されており、今やそれなしでは成り立たなくなっている
  • 放射線の利用は、他の放射線以外のあらゆるものと同様、効果とリスクを天秤にかけて判断する
参照・注
  1. (1) X線撮影に使われるX線のエネルギー領域では、光電効果が主たる反応であるため、正確には、吸収されるエネルギーは原子番号の4乗に比例します。
  2. (2) 第3章で配分されるエネルギーの計算をされた方は、ここでも同様に計算できます。発生するエネルギー2.31MeVを、7Liと4Heの質量の逆比、4:7に比例配分するだけです。
  3. (3) 現在使われているのは、p-BoronophenylalanineとBorocaptate sodiumだそうです。
  4. (4) 詳しくは、拙著『ニュートリノ』(イーストプレス)を是非ご参照ください!
  5. (5) ただしプラスティックなどの有機化合物は放射線に弱いので、放射線損傷が起こるほどの量の放射線は照射しないようにします。
  6. (6) じゃがいもに照射する様子が、環境科学技術研究所のHPに載っています。

※通常、引用論文は、「著者名、雑誌名、巻数、ページ数、年」、の順で書きますが、本サイトでは、みなさんがぐぐりやすいよう、著者名の代わりにタイトルを書いてあります


著者プロフィール

多田将 (ただ・しょう)

京都大学理学研究科博士課程修了、理学博士。
高エネルギー加速器研究機構 素粒子原子核研究所 准教授。

著書に『すごい実験』『すごい宇宙講義』(以上、中公文庫)『宇宙のはじまり』『ミリタリーテクノロジーの物理学<核兵器>』『ニュートリノ』(以上イースト・プレス)『放射線について考えよう。』『核兵器』『兵器の科学1 弾道弾』(以上、明幸堂)『ソヴィエト連邦の超兵器 戦略兵器編』(ホビージャパン)がある。